経営者は「人が減る」、従業員は「人が増える」と思っている
米国・英国・ドイツ・オーストラリアの上級ビジネス幹部およそ6,000人に、AIが自社の雇用をどう動かすかを尋ねた調査があります。幹部の答えは、今後3年で雇用が0.7%減るでした。同じ調査で従業員に尋ねた答えは、雇用が0.5%増えるでした。
数字の大きさは、どちらも小さいものです。0.7%も0.5%も、それ自体で経営の意思決定を左右する幅ではありません。重要なのは大きさではなく、向きです。同じ時期に、同じ国々で、同じ技術について、二つの集団が逆方向の未来を見ています。
この記事では、この符号の逆転がどこから生まれるのかを考えます。
参照元はNBER Working Paper 34836「Firm Data on AI」およびNBER Working Paper 34984です。本記事の内容は2026年8月26日時点で確認できた要旨の記載にもとづきます。
30秒で要点
- 米英独豪の上級ビジネス幹部およそ6,000人への調査で、幹部は今後3年でAIが自社の雇用を平均0.7%減らすと予測した
- 同じ調査で従業員は、今後3年でAIが自社の雇用を0.5%増やすと予想しており、論文はこれを期待ギャップと呼んでいる
- 同じ幹部の10人中9人は、過去3年について雇用にも生産性にも影響がなかったと回答している
- 幹部の3分の2超がAIを定期的に使っているが、その利用時間は週平均1.5時間
- 別のNBER論文(幹部約750人対象)は、知覚された生産性向上が測定された向上を上回る「生産性パラドックス」を記録している
| 用語 | 意味 |
|---|---|
| 期待ギャップ | 同じ事象について、立場の異なる集団が異なる見通しを持っている状態 |
| 生産性パラドックス | 技術投資が進んでいるのに、測定される生産性の向上がそれに見合わない現象 |
予測をしている人が、観測を持っていない
この調査でいちばん静かに重要なのは、実は符号の逆転そのものではありません。
同じ幹部たちが、過去3年については10人中9人が「雇用にも生産性にも影響はなかった」と答えているという点です。
つまり彼らの「今後3年で減る」という予測は、自社で観測された何かの延長線ではありません。過去の観測は「変化なし」なのですから、その線を延ばしても「変化なし」にしかならない。にもかかわらず予測は「減る」になっています。
この差分は、どこか別のところから来ています。
もう一つ、傍らに置いておきたい数字があります。同じ調査で、企業の69%がAIを実際に利用しており、幹部の3分の2超が定期的にAIを使っていると答えています。ただしその利用時間は週平均で1.5時間です。週40時間の労働のうち、1.5時間。この密度の接触をもとに、彼らは3年後の雇用について語っていることになります。
観測から来た前提と、語りから来た前提
判断の前提には、大きく二種類あります。自分が見たものから作られた前提と、誰かが語ったことから作られた前提です。
ふだん、この二つは混ざっています。混ざったまま「自分の考え」として意識され、区別する機会もありません。自社の状況について何か判断するとき、その判断の材料が実際に自社で観測したことなのか、業界紙で読んだことなのか、いちいち切り分けてはいないはずです。
この調査は、その混ざり方を珍しくきれいに切り出しています。「過去3年、うちでは何も起きていない」と答えた同じ人が、「今後3年で人を0.7%減らせる」と答える。前半は観測です。後半は観測ではありません。
では後半はどこから来たのか。おそらく、業界メディア、ベンダーの提案資料、同業他社の発表、投資家との会話——外から供給された物語です。
これを「経営者が浮ついている」と読むと、何も見えない
ここで「経営層が流行に流されている」と結論づけるのは、簡単ですが浅い読み方だと思います。
未来について語らなければならない立場の人は、観測を持たないまま予測を持つことを、職務上要求されています。 決算説明の場で「AIの影響については、現時点で当社では何も観測されていないので分かりません」と答えることは、実質的に許されていません。株主も、取締役会も、メディアも、見通しを求めます。
だから外部の物語を借りる。これ自体は不誠実ではありません。むしろ職務の遂行です。
問題が生じるのは、借りた物語が、自分の観測だったかのように扱われはじめるときです。借りた時点では「業界ではこう言われている」だったものが、何度か口にするうちに「うちもそうなる」に変わり、やがて「うちはそうなるから、それを前提に組織を設計しよう」になる。この過程のどこにも、明確な嘘はありません。ただ、出所のラベルが剥がれていくだけです。
従業員もまた、別の物語を借りている
公平を期すために言えば、従業員の予測も観測ではありません。
彼らが見ているのは自分の手元の仕事です。そしてそこでは、いまのところAIは仕事を増やす方向に働いていることが多い。新しいツールの習得、出力の確認、これまでなかった工程の追加。手元の実感としては「増えた」が自然です。
しかしそれは、部分的な観測です。自分の担当範囲で起きていることは、会社全体の雇用がどう動くかとは別の話です。従業員も、自分の見える範囲から外挿した物語を持っています。
だから、この期待ギャップは「どちらかが間違っている」という話ではありません。二つの集団が、別々の情報源を持ち、別々の物語を借りて、それをそれぞれ自分の見立てだと思っている、という話です。
感じている効果と、測れている効果もずれている
もう一つ、この構造を補強する材料があります。
同時期の別のNBER論文が、企業幹部およそ750人への調査にもとづいて、知覚された生産性向上が、測定された生産性向上を上回るという「生産性パラドックス」を記録しています。
論文の著者はこれを収益実現のタイムラグとして解釈しています。効果は出ているが、数字に現れるまでに時間がかかるという読み方です。ただし、別の読み方も可能です。投資を正当化したいという動機が知覚の側を押し上げている、という説明も原理的には成立します。論文はこの二つを分離していません。したがって、どちらかに決めることはできません。
決められることは一つだけです。感じている効果と、測れている効果は、同じではない。 これは記録されました。
確かなことと、まだ確かではないこと
確かなこと:米英独豪の上級ビジネス幹部およそ6,000人への調査で、幹部の予測が雇用0.7%減、従業員の予想が0.5%増だったこと。同じ幹部の9割が過去3年の影響なしと回答していること。企業の69%がAIを利用し、幹部の利用時間が週平均1.5時間であること。別の調査が知覚と測定のずれを記録していること。
まだ確かではないこと:この調査から、どちらの予測が正しいかは判定できません。どちらも自己申告の予測であり、実績ではなく、予測の精度も検証されていないためです。また、従業員のサンプルが幹部と同一企業に対応するものかどうかは、本記事が参照した要旨からは判別できません。したがって本記事では「同じ会社の中で」ではなく「同じ時期に、同じ国々で」と表現しています。
対象4か国はいずれも先進国で、日本は含まれていません。日本企業に外挿する場合は、あくまで仮説としてです。なお、この論文には利益相反の開示があり、著者の一人が特定企業の株式を保有している旨が記載されています。「利益相反のない一次情報」ではありません。
また、本記事で参照した二つの論文は調査設計も設問形式も異なる可能性が高く、本文を通読していないため、結果を「矛盾」として並べることはしていません。
判断軸の提示
この構造から持ち帰れる判断軸を、1つ提案します。
AI導入の議論を始める前に、経営者と従業員の双方に同じ問いを向けること——「その予測は、どこから来ましたか」。
合意形成より先に、前提の出所を突き合わせる、ということです。「AIで人が減る」と考えている人に、それは自社で観測されたことなのか、外から来た話なのかを聞く。「AIで仕事は増える」と考えている人にも、同じことを聞く。
多くの場合、双方とも即答できません。それでいい。答えに詰まること自体が、前提が観測ではなかったことの発見だからです。
この確認を飛ばして導入の議論に入ると、失敗は技術ではなく信頼のところで起きます。経営者にとっての導入は削減の準備であり、従業員にとっての導入は仕事の拡張です。同じ会議に出席しながら、二人は違うプロジェクトの話をしていることになります。
自分でも試せる、最小の検証
自社でAI導入の話が進んでいるなら、次の会議で1つだけ質問を足してみてください。
「いま話しているAIの影響について、自社で実際に観測されたことは何ですか」
観測された事実と、外から来た見通しを、その場で二列に分けて書き出します。多くの場合、後者の列のほうが長くなるはずです。それは異常ではありません。ただ、どちらの列を根拠に何を決めようとしているのかが、分けて書いた瞬間に見えるようになります。
そして、前者の列が空欄のまま組織設計の議論が進んでいるとしたら、それは検証すべき状態です。
この記事で扱ったような、AI導入をめぐる社内の前提のずれを整理したい場合は、無料診断ツールで状況を言語化するところから始めることができます。
状況を整理する(15分)